明治神宮について

明治天皇
昭憲皇太后

明治神宮の御祭神

御祭神は、「明治天皇」「昭憲皇太后」の御二柱です。
明治天皇は嘉永5年9月22日(新暦11月3日)孝明天皇の皇子として御降誕あそばされました。
慶応3年に御年16歳で第122代天皇に御即位され、同年、王政復古の大号令を発せられ、翌年の明治元年には「五箇條の御誓文」をもって国是をお誓いになりました。
ご在世中は国内外ともに情勢が激しく揺れ動く時代でしたが、常に御自ら国民の先頭に立たれ、国づくりを推進されました。それは、憲法・教育・文化・ライフラインの構築・国防等と多岐におよびます。古来の国柄を大切にまもりながら、現代のくらしへと通ずる近代化の扉を大きくひらいて推し進め、飛躍的な向上と発展を成し遂げられました。
また、明治天皇は、御製(ぎょせい:天皇がお詠みになる和歌)を多くのこされていますが、ご在世中にお詠みになられた和歌はおよそ10万首におよび、国や国民に対する御心や、真摯に諸事に向き合われるお人柄などが伝わります。明治45年7月30日、61歳(数え年)の若さで崩御あそばされ、現在の神宮外苑で御大葬が行われたのち、京都伏見桃山陵に奉葬せられました。

昭憲皇太后は、嘉永3年4月17日(新暦5月28日)、一條忠香公の第三女としてご誕生になられました。
ご幼少の頃よりご聡明で仁慈に富ませられ、その御心は国や民のために注がれました。なかでも「昭憲皇太后基金」は、国際赤十字へと皇后が下賜されたご浄財を元金としてはじまりましたが、その御心は今も受継がれ、世界で最も歴史ある国際人道基金となり、現在も毎年、世界の赤十字・赤新月社を通じて配分され、世界の人々の日々の改善、よりよい未来の創造を支えています。また、女子教育のご奨励においても多額のお手許金を下賜され、東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)が設立するにいたりました。開校式にも行啓され、同校では昭憲皇太后が下賜された御歌(みうた:皇太后がお詠みになる和歌)がわが国初の校歌として今も歌われています。昭憲皇太后におかれましても生涯3万首を超える御歌を詠まれており、「金剛石」や「水は器」は、華族女子学校(現・学習院女子中等科・高等科)の教育方針を詠んだものとして、尋常小学校唱歌として広く歌われました。

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明治神宮の創建

明治神宮は、大正9年(1920)11月1日にこの代々木の地に創建されました。
明治45年に明治天皇が崩御されたあと、御神霊をおまつりして御聖徳を敬い、永久にお慕いしたいとの声が全国各地からあがりました。
当時、東京市長であった阪谷芳郎は、渋沢栄一、中野武営(東京商業会議所 会頭)、近藤廉平(日本郵船会社 社長)などの各界有志と連携し、明治神宮の造営に向けて覚書を策定、内閣総理大臣西園寺公望、宮内大臣 渡辺千秋へと手交しました。大正4年5月1日、内務省に「明治神宮造営局」が設置されました。
造営に関する逸話は、創建の経緯のほかにも多くのこされていますが、なかでも国民が御祭神をお慕いする気持ちが大きなちからとなった次の2つのことは特筆すべきものでしょう。まず、「全国青年団による勤労奉仕」です。明治神宮造営局総務課長であった田澤義鋪の立案によりおこなわれた静岡県安倍郡有度村の50名の青年団の勤労奉仕が認められ、以降、全国の青年団による勤労奉仕があり、その人員は、のべ10万余名におよびました。このことを機として大日本連合青年団が結成され、外苑に日本青年館が建設されました。
次に、明治神宮をおまもりする豊かにしげる樹々は、人の手によって植えられたことはご存知でしょうか。明治神宮のご造営にあたり、全国より約10万本の木々が寄せられ、青年団の勤労奉仕により、荒れ地であった場所にひとつひとつ丁寧に植えられました。また、「永遠の杜」をつくる計画は、本多静六、本郷高徳、上原敬二らにより、150年後には自然の循環が行われていることを想定し、樹木の成長を鑑みながら立てられたものでした。御祭神への敬慕、未来にむけた先人たちのまごころは、現代の私たちに優しい木漏れ日となって届き、次の世代へつなぐことの大切さを教えてくれています。

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明治神宮の復興

昭和20年4月14日、明治神宮の御社殿群は、一部をのこして戦災により焼失しました。御祭神の御霊代は神職によりまもられ、戦火を免れることができましたが、明治神宮の御社殿の焼失が報じられると、戦後の厳しい時分にありながらも、多くの国民から復興を願う手紙や浄財が届けられ、また、御用材献納の申し出などもあり、仮殿建設に大きな助けとなりました。
仮殿竣功後、明治神宮崇敬会が設立され、今後の明治神宮のご復興に向けた動きが本格化し、明治神宮復興奉賛会が結成され、焼失した社殿群の建立が検討・推進されました。

内苑と外苑

明治神宮は内苑と外苑から構成されています。
内苑は、渋谷区代々木神園町にあり、御社殿が鎮座する永遠の杜です。神楽殿や御苑、明治神宮ミュージアム、宝物殿などがあります。また、外苑は、新宿区霞ヶ丘に位置し、御祭神のご生涯が描かれた80枚の壁画を有する聖徳記念絵画館や、各スポーツ施設が並ぶ一帯と、港区元赤坂に位置する明治記念館があります。
内苑と外苑は造営の目的が異なり、内苑は、人々が御祭神の御神霊をおまつりし、御神徳を仰ぎ敬うことを目的としています。また、外苑は御祭神の御聖徳を永く後世に伝え、国民の体力の向上や芸術文化の普及となるべく、今も日々たくさんの方々の心身の健康に寄与しています。